2007年04月24日
よみうりホール
立川談志 「青龍刀権次」 「粗忽長屋」
身体の調子が悪い悪い死ぬよ死ぬよと言ういつもの愚痴が少ない。噂では最近、調子が良いらしい。
けれど、わたくしの目からは決してそう調子が良さそうには見えず、妙なところで記憶がひっかかったりしている。「回路」の危うさがあった。
「八丁堀」と云う言葉がなかなか出てこない談志を、どうして想像できただろう。
枯れ枝に布を巻きつけたような身体の線を今までに目の当たりにしても、その衰えは何も問題は無かった。落語は、演者の脳と受け手の脳の繋がりで、演者の声も仕草も受け手の笑いも繋がった折の爆ぜた電気が外から見えているものだと思っていた。なのに、「八丁堀」を思い出せない談志にかなり戸惑っている自分が居る。
でも、分かっているんだ。そう思うのは受け手であるわたくしの中だけの現象だ。落語には関係ない。そう思わないと辛い。
さておき。
そうは言っても楽しかったんだよ。本当だよ。本当だよ。本当だよ。
楽しかったから、余計不安になったんだ。
さあ、気を取り直してレポートだ。
■青龍刀権次
マクラは「帰属」と「嘘」の話。
帰属と云う言葉を使うものこそが帰属している、と言う悲しみを知っているからこそ「俺は何にも帰属しない」と抗うのだろう。この「かっこ悪くて哀しいかっこ良さ」が大好きだ。
車椅子で来た談志の知り合いが前列に居て、彼の顔を見ながら「おい、おい」と呼びかけ身体障害者の小話をする。これは「いじっている」と云うよりも、「お前なら分かるよな、俺の言うこと」と理解者へ顔を向けて話していたように見えた。
「落語は嘘を気付いているから好きなんだ」。ここで云う落語は落語家ではなく、落語自体。
ふと気付いたが、談志はルイス・キャロルなんじゃなかろうか。
「嘘は気付くから嘘」「帰属と云う言葉を使うことによる帰属」。我々観客の目の前からこんな矛盾を鞄に詰めた「なぞなぞ」を出し、なぞなぞの答えに気付きもしない我々の背後から腕を組んで眺めているんだろう。
演舞場で親子会をやった談志が、歌舞伎座で独演会をやる小朝の了見をなじる。それもまた、我々に対する「なぞなぞ」の一つなんだろうか。(って、したり顔で色々しゃべくってるなあ、わたくし。みっともない。)
演じた後で「飽きちゃった」だの「ヤんなっちゃった」だの語っていた青龍刀権次。
たまたま昨日「御神酒徳利」を聞いたばかり。3度幸運が続くやつもいれば、3度不運に見舞われるやつもいる。落語の嘘は、人生のリアル。
ちょっとしたメモ
・船底をガリガリ齧る春の鮫
・包みが4つで百両=100円(札)
・楽太郎とたい平
■粗忽長屋
「談志さん、丸がね、、、描けなくなったんですよ、なかなか。」と手塚治虫のエピソードを語る。
「悪い了見とサービス精神は一緒」「嘘は付くな。嘘は天才にだけ許された特権」などなど話す折に、ふと鼻先に何かが弾けたような顔をして「だから、、、手塚さんは奇子やばるぼらの領域に達したんだな、、、。」
、、、やめてくれよ談志、死者と話をしないでくれ。不安になる。こちらで話してくれよ。
こちらに刻もうとしているかのような粗忽長屋。はまった。
「さあ?」「雨みたいな音出しやがって」
「起きて行き倒れをやんな。死んでいるなら死に倒れだろ。」
「コンコン様の間柄」
「竹馬の友だろ?」「おでん屋で知り合ったから竹輪の友なんだよ。」
「何か云え!」「、、大根おろし」
「漬物屋の小僧は11で死んだ」
「行くべきか」「何、ハムレットみてぇな事言ってやがる」
あー。脳に刻まれてゆく。
終わってから
「昔、選挙やってたからこんな声になっちゃって。艶の無い声で恋の話をしてもな。」と話し始め、少し間をおき「俺は、言い訳屋に帰属しちゃってるかな?」と笑う。チャーミングに笑う。
参ったなあ。
こうやって笑う談志や、、、
宮さん宮さんを軽く歌う談志、
アステアやジェラール・フィリップの話を楽しそうにする談志、、、
こんな談志が本当に好きなんだ。
最後に、青龍刀権次言葉がでなくて間を空けてしまった己を茶化して
「もう一度勉強して出直して参ります、、、ってことだな、、、」
と言う談志に不安になる。いつもなら、文楽を引き合いにだした冗談も笑えるけれど、不安がどうにもぬぐえない。
なのに、この言葉を聞いたお客さんから再び大きな拍手が響く。どういう意味の拍手なんだろう。